「自由と責任」の問題は、哲学的にも社会学的にも大きな問題であり、これまで何人もの先達者が議論をしてきたところで、これらの議論は難しすぎて、我が身にしっくり落ちてこないと思っています。
しかし、一方でとても身近な問題でもあります。
特に昨今の労使関係においては、社員の自由をどのように考えるのか、現場の具体的な事象では難しい判断を求められているように思います。
自由にも様々なレベルがあります。
社会の中で生きていれば当然に法令に従わなければならないですし、働いていれば、労働契約書や就業規則に従わなければなりません。とはいえ、法令や就業規則等に反しない範囲であれば、何でも自由か、と問われれば、それは違うと答えざるを得ません。
つまり法令、就業規則に従っていれば、「責任」を果たしているということにはならないのです。
それでは「責任」の中身は何か、誤解を恐れずにいえば、「自制」ということではないかと思います。
法令や就業規則は、自分自身による規制ではなく、いわば外から加えられる規制です。規制を人に守らせるためには権力が必要となりますので、外からの規制とは、つまるところ権力による規制となります。罰則等をかすなどして強制的に制限することになります。
一方で「自制」とは、自ら制限することを意味します。では何を制限するのか。新解明国語辞典によれば、「自制」とは、「むき出しにしたくなる自分の感情や欲望を抑えること」だそうです。
なぜ自制が必要かといえば、人が他の人と共に社会生活を安全に円滑に営むためですが、しかし、それだけではありません。
自制は、自由を守る意味があるのです。自制が効かない人に対して、社会は権力を用いて法令等を無理矢理に守らせることになります。それによって、人は権力者から自由の一部を奪われるのです。つまり「自制」は、自らの「自由」を権力者から奪われないためにも必要不可欠なのです。
自由と責任がペアとなっているのは、他の人と共に社会生活を営むためという側面と自由を守るためという側面があるのだと思います。
自由を守るために責任を果たすこと、つまり自制をすることができることが、「自由」を追求する者の条件になっているということは忘れてはいけないと思います。
(弁護士山田勝彦)